私たちはいつも韓服の美しさを礼賛して来た.線がす早い,優雅だ,自然だなど常に韓服に付きまとう賛辞だ.あるデザイナーは韓服を ‘風の服’と呼んで海外に知らせていたりする.韓服は民族が享受して来た長年の衣生活の産物で魂だ.ところで今は魂ではなく肉体が問題だ.今日韓国人たちは実生活で韓服をほとんど着ない.これ以上韓服を着ないということは韓服という,魂を盛る肉体自体が消滅していることを意味する.韓服は徐々に現実で消えている.
ところで最近韓服が新しい肉体を得ている.それはメディアだ.映画「スキャンダル」,「淫乱書生」,「王の男」とテレビドラマ 「大長今」,「宮」のような史劇の中で韓服はまた生命を引き継いでいる.史劇を英語では ‘コース踊りドラマ’(コスプレではなく)と言うのに, 史劇で一番印象的なことがすぐ時大福だからだ.史劇の中韓服は考証に充実するよりは視聴者たちの感覚に合わせて派手にデザインされたまた一つのスペクタクルだ.「宮」のフュージョン韓服はこんな傾向が極端的に現われた事例だ.
とにかく今日韓服が一番活発に生きている所は現実空間ではなく映画やテレビみたいなマスコミの中からだ.これから韓服は ‘着る’ 服ではなく ‘見る’ 服だ.韓服と係わったどんな接近もこんな認識に土台しない限り外れたのがなるしかない.時代変化にもかかわらず韓服は必ず ‘着る’ 服ではなければならないという考え方ではスペクタクル化した韓服の意味を読み出すことができない.
もちろん現実で消えた代わりにメディアの中に入って行った韓服,そしてスペクタクル化された韓服を韓服の歴史でどんなに評価するとハルジの問題はとてもおもしろいのが違いない.明らかなことはこれからもっと多い文化遺産たちがメディアの中で生命を引き続くだろうと言う点だ.どうせ時間が経てば韓服やお化けなどが皆現実で見られない,民族文化のイメージアーカイブにだけ存在するはずだという側面で同じかも知れない.伝統のミディ漁火こそ文化遺産をコンテンツ化しようとする拐在的欲望ときっかりあうことかも知れない.
もう韓服は原型どおり持続することができない段階へ来ている.こんな状態で韓服の長続き可能性は二つだ.一つは先立って話したとおりスクリーンやテレビで再生されながら民族の記憶の中に生きて行くことで,他の一つは完全解体されて新しく誕生するのだ.電子がいわゆるイメージとしての生なら後者は解体による再創造の道と言える.後者の場合日本事例を参考するに値する.三宅一生と川久保玲みたいな日本デザイナーたちは伝統着物を解体して新しいファッションに再創造する可能性があることを見せてくれた.もし韓服がメディアの中でばかり生きて行くのに満足することができなければ,これ以上オリエンタリズムを売り込むのではなく果敢な実験を厭わないとすべきことだ. <チェボム·デザイン評論家>
[ハンギョレ新聞 2006-08-10 20:24] 元記事はこちらから

恵園申潤福の「美人図」(左側)と文化放送ドラマ「宮」の主人公ユンウネ.
※韓国の若者たちもドラマ「宮」によって韓服や伝統文化の美しさを再確認したと聞きます。今後は現代的にアレンジした「宮」のフュージョン韓服のような、’見る’ばかりでなく’着たい’服になるのではないでしょうか〜。














